松尾汐恩選手といえば、大阪桐蔭でクリーンナップを打ち強肩強打の捕手として大活躍でした。
また、3年時に出場した春の甲子園では優れたリードで投手をバックアップし、防御率0.75と驚異的な数値で勝ち進んだことは記憶に新しいかと思います。
夏の甲子園では準々決勝で敗れることとなりましたが、大会中も2発のホームランを放つなど大活躍でした。
そんな甲子園でも大活躍でドラフト上位指名確実の松尾汐恩選手の両親は一体どんな方なのでしょうか?
父は野球経験者であるのかも含めてご紹介していきます!
この記事でわかること
について解説していきます!
松尾汐恩選手の父親は「太志(ふとし)」氏です。
松尾汐恩選手が松尾汐恩選手の父親・太志さんは一体どういう方なのでしょうか?
その詳細について内容をご紹介していきます。
残念ながら、顔写真は見つかりませんでした。
年齢については、42歳や44歳と情報がありますが正しい情報はなく推定で40代前半から中盤ほどの年齢であると考えられます。
中学3年時に出場が決まった世界少年野球大会前に精華町の広報誌である花荘華創にて、父親の影響で野球を始めていることが分かりました。
小学1年生からお父さんの影響で野球を始め、現在、京田辺ボーイズの内野手としてプレーしています。
広報誌 「華創」
松尾汐恩選手は、松尾汐恩選手の父親から影響を受けて野球を始め出したことが判明しました。
このことから松尾汐恩選手の父親が野球経験があるということが分かります。
まさかこの時、松尾汐恩選手の父親本人もプロのスカウトからドラフト上位指名が予想されるほどの選手になるとは松尾汐恩選手の父親も考えられなかったでしょう。
松尾汐恩選手が松尾汐恩選手の父親による影響で野球を始めたことが分かりましたが、それは一体どんな内容なのでしょうか?
その内容とは、野球を始めた小学1年生より前からグローブをはめていたことにあります。
物心つく前からグローブを松尾汐恩選手の父親がつけさせていた影響により、自然と野球がしたい!と影響を受けたのでしょう。
その後も松尾汐恩選手は松尾汐恩選手の父親から高校入学までに「自分で考える力」など影響を受け続けることになります。
次に影響を受けた練習内容とは、自宅の駐車場で行われた「1日1000球のトスバッティング」です。
1日1000球のトスバッティングを終えるまでは夕食も食べることができない徹底した練習です。
また、ただ打つのではなく実践を想定してのバッティング練習だったため、1球1球考えて打つという考える癖が身についたのでしょう。
この練習の成果が最も発揮されたのは、大阪桐蔭2・3年目の甲子園です。
大阪桐蔭野球部の甲子園通算本塁打数で歴代1位タイと成果を残すことができたのです。
大阪桐蔭野球部の1年時には打撃不振の時期がありましたが、父の影響によりどんなプレーでもよく考えプレーする練習から己を磨き成果につなげることができた結果ですね。
松尾汐恩選手の母親は「美和(みわ)」氏です。
松尾汐恩選手が小学1年生から野球を始めていることもあり、中学卒業までは給水当番や車出しなど松田汐恩選手を献身的にサポートしていたことは間違いないでしょう。
高校からは大阪桐蔭野球部へ進んだため寮生活となったことで松尾汐恩選手の母親の手から離れ、暮らすこととなりました。
そのため、京都と大阪で距離はさほど離れておりませんが会えない日々が続く中で甲子園出場を2年生からしており、観戦した時の喜びは大きかったことでしょう。
また、松尾汐恩の母親は、大阪桐蔭の保護者限定のオリジナルバッグを中心人物となりました。
デザイン決めなど保護者会でも好評のアイテム作製に一役買いました。
松尾汐恩選手と同様に松尾汐恩選手の母親も大阪桐蔭で大活躍だったようです。
そのオリジナルバッグがこちらです。
大阪桐蔭の校章がワンポイントとなり、シンプルな素晴らしいデザインですね。
今回、松尾汐恩選手の両親を調べた結果からプロ入り最有力候補として成長した松尾汐恩選手が松尾汐恩選手の父親の影響により、野球を始めていたことが明らかになりました。
また、甲子園後のインタビューより、これから考えて大学進学かプロ志望届を出すか考えることが分かりました。
プロ入りを急ぐのではなく、しっかり考えてから進路を選ぶ冷静な姿から松田汐恩選手の両親が芯の通った人となるよう大事に育ててきたことが伺えます。
中学時代から世界大会でも活躍した選手なだけにプロ入りして、「走攻守の3拍子が揃った選手が目標」をしっかり叶えた姿を見届けていきたいですね。
そんな松尾汐恩選手の今後の活躍に注目です!!
以上、松田汐恩の両親まとめ!野球経験のある父からの影響についても!でした。
最後までお読みいただきましてありがとうございます。